最近の不祥事謝罪会見で思うこと

自衛官3人が集団強姦容疑で逮捕されたニュースの自衛隊の会見を見て思ったことなのですが、最近の各種犯罪や不祥事での会見で『それ違うんじゃないの』と思っていることがあります。
今回の事件でもそうですし、小6女児を誘拐した大学生の事件もそうなのですが、所属する団体や会社、学校やコミニティの責任はそれほど重いのかということです。このような事件は本人の責任、または親を含め家族のしつけの部分が大きいのではないかと思います。自衛隊という団体の一員や○○大学の学生という前に、1人の社会人として、または社会を構成する一員*1としての教育やしつけがなされているのだろうか、そこが曖昧にされている気がします。


例えば自衛官が許可なく戦車で公道を走ったとか銃器弾薬を横流しして販売したとか、その団体や会社の特殊性に関わる部分だったり、組織ぐるみの不祥事なら所属している自衛隊の責任も重いでしょう。また事件のおきた場所が自衛隊の施設内だったり、大学の構内ならその管理責任や指導の不届きもあるでしょう。でも、最近頻発しているこのような事件は、それ以前の問題のように感じています。


高校生がパチンコ店で喫煙していた出来事もそうですが、社会の常識やルールを自分の欲求を押さえ切れずに破ってしまったケースでこそ、自己責任が叫ばれてしかるべき問題ではないかと思います。集団でアパートの部屋で暴行を加えたりすることを、所属する団体や会社、学校がどのように防げるのでしょう。喫煙はいいことだと教えている学校もないでしょうし、異性に対する性行為の強要を容認する団体も多分ないでしょう。その中でも起きているこのような事件は、所属する団体が謝罪すれば済むような問題なのでしょうか。


自分の欲求に負けて社会のルールを破ることの結果がどのようなものになるのか、被害者のいる犯罪の場合、相手の立場に立って考えることがなぜできないのか。どうも、道徳教育とか理性の発達とか、根本的に何かが欠けているような気がします。


それが何なのかはまだ良く分かりません。ただ、ゲーム脳とか食べるものとか、人間の行動に影響を与えてしまう外的要因を真剣に考えた方が良いんじゃないのかと思っています。”ゲームそのもの”が犯人とか、”携帯電話の普及”が原因とか、個別の問題ではなくて、理性であるとか、社会適応能力とか、そんな物が育っていない社会の構成員が増えてきている現状が心配です。

*1:社会人という言葉は自分で働いている人を指すようですが、小中学生はともかく、高校生以上は社会の構成員としての義務があるような気がしています