日本サッカーのカタルシス

昨日のコメント欄のやりとりで書いたものですが、エントリーとして残したいのでひっそりと書き記します。


セルジオ越後さんなどもよく発言されてますが、日本サッカーには確実に”トップ下信仰”のようなものがあると思います。そもそもトップ下というポジション自体があるのかどうかも現代サッカーでは疑問なのですが、”ファンタジスタ信仰”や”10番信仰”とあわせて、日本サッカーの健全な進路を押し曲げているように感じるのです。
得点を決めた人間を評価するよりも、パスの出し手を評価する、そんな風潮ですね。”得点を演出した”という表現もそうですが、得点を決めた人間がいるからこそ、演出にもスポットライトが当たるのであって、もっと得点者を素直に誉めても良いだろうと思っています。


そんな得点者を褒めない日本の風潮についてですが、これは日本人が得点シーンに感じる”カタルシス”の種類の問題なのだろうと考えています。
たぶん日本人は相手を崩しきって得点することに、かなり強くカタルシスを感じるのではないでしょうか。例えば「流れの中での得点」という言葉がありますよね。これは明らかに「流れの中での得点」と「セットプレーの得点」を比べたときに、同じ得点でも格の違いを無意識に設定しているのではないでしょうか。
日本人にとっての最高の得点シーンは、華麗なパスでDFを翻弄して切り崩し、最後はGKもかわしてボールをゴールに流し込む、こんな場面なのだと思います。エリアの外からのロングシュートには、得点としては喜んでも格としては低いのでしょう。同じミドルシュートでも、FKが直接決まったような芸術的な得点だと少しカタルシスを感じるのかな。CKからヘディングで決めた得点などは、やはり同じように得点としては喜んでも、格としては無意識に一番下にランク付けしているのではないでしょうか。

  1. パスをつないで、相手を崩した得点
  2. フリーキックをキッカーの芸術的シュートで決めた得点
  3. エリア外からの個人技によるミドルシュートの得点
  4. コーナーキックフリーキックに合わせた得点


たぶん日本サッカーの遺伝子の中にこのような感覚が無意識に蓄積されていて、シュートが打てるシーンでもパスを選択してしまったり、得点者よりもラストパスを出した”トップ下”を信仰するのではないかと考えています。まあ、根拠はないのですけれどね。
現代サッカーにおいて、FW,MF、DFというポジションの役割はあったとしても、FWだって守備の意識は持たないといけないし、MFだって得点の意識は持たないといけない。時にはセットプレー時のDFの攻撃参加が大きな得点元になることだってありますよね。初めに与えられた役割と、その場の状況に応じて瞬時に判断しこなさなければいけない役割。以上がほどよくミックスされてこその現代サッカーだと思うのです。その意味では”トップ下”という言葉自体が現代サッカーでは意味を持たないと思うし、それを信仰している時点で日本サッカーの未来の進路を捻じ曲げているように感じてしまいます。


日本人という国民性が、突出した個の技術よりチームワークや他人の為の犠牲を良しとする国民性だという背景はあるにしても、少なくともサッカーの世界ではパスワ−クを評価する以上に最後に得点を決めた人間を評価する風潮にならないと、積極的なミドルシュートも増えないし、ひいては日本の得点も増えないのではないかと考えています。
釜本さんだったかな、誰かが雑誌のインタビューで語っていたのですが、”FWがクロスに合わせる”のではなくて、”FWにクロスを合わせる”ようにならないと日本の得点は増えない、そのようなことを語っていましたが、まさしくその通りだと思います。
FWよ、もっと主役となれ、なんてね。