敗因

helguera2006-07-21

昨夜NHK-BSで放送されたドイツワールドカップを振り返る番組を見ました。振り返りたくもない3試合ですが、あらためて編集されたものを見ると日本も惜しいチャンスがありましたね。ただ、それ以上に日本の守備は相手の攻撃にズタズタにされていたのが見ていて辛かった。『敗因』などというものは決して一つの原因ではなく、様々な要素や時間的関係が複雑に絡み合って構成されているとは思うのですが、それでもいくつか考えたことを書き記します。また、あくまでも”負けた原因”を考えているだけで、仮にそれが個人の名前に関わったとしても、それは戦犯探しをしているのではありません。”負けた原因”を考えることで今回の悔しさを特定の個人にぶつけるのではなく、”負けた原因”を考え2度と同じような失敗を繰り返さないための糧としたい、そんな心境です。


ドイツワールドカップの敗因には大きく2つのものがあるような気がしています。2002年の7月から2006年の6月までの4年間にわたる期間の中での失敗。そして代表メンバーが発表されてから3試合を戦い終えるまでの1ヶ月間の中の失敗。この2つを切り離し、個別に考えないとどうも話がややこしくなってしまう。もちろん、4年間の長期間にわたる失敗のツケが最後の1ヶ月間に最悪の結果で表れてしまったのだとは思いますが、それでも話を整理するためにあえて分けてみます。


1. 4年間の失敗
これは監督選びの失敗が大きい。監督個人の能力と言うよりも、まずはじめに選び方に大きな問題があった。2002年の日韓ワールドカップまでの4年間を総括した上で、さらに上を目指すための技術委員会のリストから選んだのではなく、川淵氏個人の意見である「ジーコには聞いたのか」という人選から、すべて狂ってしまった。
これは当時の技術委員会のリストが公表されていないのであくまで想像の話になってしまいますが、当時の日本代表に対する足りない点を検討した上で準備しておいたであろうそれまでの監督リストの順番が、組織のトップである会長の一言で入れ替わってしまったと考えられます。そこには「組織と個」という本来バランス軸で語られるべきことを対立軸にもっていってしまう言葉のまやかしや、前の監督の実績を貶めるような意図が働いていたように思います。「規律と自由」、「歯車と自主性」という対比も同じですね。
必ずしも同じ路線を継承する必要はありませんが、あえて今現在構築されているものまで破壊する必要もない。結局のところ、やはり現会長の個人的思惑がそれからの4年間を決めてしまいました。


本来代表監督の仕事というものはプロの仕事として最も厳しく他人に評価される仕事であると考えます。試合の結果はどうか、試合の内容はどうか。選手の掌握はできているのか等々。契約の更新時期だけではなく、たとえ契約の途中であっても問題が起これば即刻解雇されてしまう厳しい世界です。
しかし、日本サッカー協会の会長が自らの独裁的裁量で決めてしまった代表監督であり、その人選が日本のサッカー界にも恩があり世界的にも有名な元選手だったと言う2重のしがらみから、任期途中では解任をしにくい状況になってしまった。
特に協会の中でワンマン的に振舞う川淵会長にとっては、独断的に人選に押し込んだ監督の解任は、自身の協会内やマスコミ上での地盤沈下にもつながってしまう。アジア予選で不甲斐ない戦いを続けても、「勝てばいいんだろう」と開き直るしかなかったのでしょう。


それに対し、本来は権力の監視役たるメディアの数々も、協会における取材規制をちらつかせられたのか批判は弱腰にしかならず、誤った方向に進んでいる代表チームに対し警鐘を鳴らせる媒体は存在しなかった。もしかしたら存在したのかもしれないが、世論に大きな影響を与えられるだろうテレビ、新聞、雑誌の各媒体の提灯の持ち方は見ていて痛々しいほどだった。誤った代表監督選びにより誤った方向に進んでいるように見える代表チームに対し、「NO」と突きつけられないメディアの責任も大きかったと思います。
しかし、ドイツでの惨敗後に漏れ聞こえてきた、「協会や代表監督を批判する記事を書くと協会会長がチェックし、記事の訂正やそれ以降の取材パスの発給に制限がかかる」ということが事実ならば、やはりこの部分でも協会の黒い影を感じてしまいます。


そしてフラフラとい進む代表チームに対し、大きな批判を上げることなく支持し続けた我々サポーターの責任も小さくないと思う。サポートという言葉の意味に拘ることなく、たとえ応援するチームであっても間違った方向に進んでいる時は断固反対し、チームを正しい方向に導こうという覚悟を果たして多くのサポーターは持っていたのか。
この4年間の代表チームの歩みを見て、「これならドイツでも活躍してくれる」と思う人間と、「これではドイツでは大変なことになる」と思う人間のどちらが多かったのだろう。もし、「これならばドイツでも活躍してくれる」と思うサポーターが大多数であったのならば、ドイツでの代表チームの惨敗は当然の帰結なのだと思います。協会や代表チーム内でも世界基準が見えなかったのと同様に、サポーターにも世界基準が見えなかった。世界基準が見えないならば批判することもないし、監督交代の必要もない。協会も、メディアも、サポーターも、「このチームでいける」と本気で思っていたのなら、ドイツでの結果は当然の結末なのでしょう。
万が一「このままではやばい」と思っていたのに何もできなかったとしたら、悔いが残る結果でしたけれど。


2. 1ヶ月間の失敗
基本的な約束事やフォーメーションやスタメンの選手は決めるけれども、そこから先は選手の自由と自主性を尊重する代表チーム。そこには選手間の話し合いが欠かせませんが、もし話し合っても結論が出なかったら。もしチームとして統一されたイメージが持てなかったら。もし、11人の選手がそれぞれ自由なサッカーをやりだしたら。
「自由は要らない」などとは言いません。しかし、サッカー選手として代表選手にまで上り詰めた選手たちが、それぞれ違う価値観をサッカーに対して持っていても不思議はない。その時には、どうなるのだろう…。これが、「自由と自主性」という甘い言葉に対し感じる不信感でした。


例えば2002年の日韓ワールドカップでロシアと戦った日本代表チーム。あの時の決勝点となった稲本選手のゴールには、自由はなかったのか。何かの約束事があって、稲本選手はあそこまで上がっていったのか。あの時の稲本選手は監督の歯車としてあの場所でシュートを放ったのか。
きっとそんなことはないでしょう。稲本選手は自分の自主性ある判断でまわりの状況を理解し、攻撃に出たのでしょう。規律だけで縛られていたのでもないし、歯車として何の判断も許されなかったわけでもない。言葉のまやかしを取り除いてみれば、守備は組織的に共通理解をもって守り、攻撃は個人の自由とアイデアを出して攻める。ところが、2006年のドイツワールドカップを戦ったチームは、攻撃も守備も自由にやってしまった。


登録メンバー発表以降の合宿で、たぶん何十時間と選手の話し合いは行われたのでしょう。しかし、ワールドカップグループリーグ敗退後の中田選手の特番や宮本選手の特番を見ても、守備の仕方について話し合いの結論が出たようには思えませんでした。結論が出ることが大切なのではなくて、どんな内容だろうがチームが統一した共通理解をもって練習をし試合に臨むのが大切なこと。オーストラリア戦の失点した時間帯はチームの守り方や戦い方の中に選手の共通理解はあったのか。


合宿開始からの約1ヶ月を共通した理解を持って取り組んでくるのと、試合直前になって話し合いで戦い方を決めて試合に臨むので、出るパワーの違いがあると思います。ましてや付け焼刃の共通理解はスタメンの選手ばかりで、途中交代で入ってきた選手はラインを上げるのか下げるのかも分からないし、バイタルエリアで守りを固めるのか前に出て攻めるのかも分からない。個々の選手は自信を持って判断しているのかもしれませんが、チームとして自信を持って共通したイメージが描けているのか。
結局のところ、この”チームが共通して自信を持っていたか”という部分がこの1ヶ月間の失敗だったのではないかと思います。「自由と自主性」の裏側に潜む、「チームの空中分解」の危険性。最後まで自分たちの戦い方にチームとして自信がもてなかったのではないか。


DFラインを上げて戦えば良かったのか。DFラインを下げて戦えば勝てたのか。これはラインだけの問題でもなく、プレスだけの問題でもなく、ボールポゼッションだけの問題でもない。それらの、様々に起こるピッチ上の現象の中で、どれだけ選手たちが共通の絵を描けるのか。どれだけ自分たちのチームの戦い方に自信を持って、迷うことなく戦えるのか。




4年間の中で、そして最後の1ヶ月の中で、それまで自分達が積み上げてきたものを自信として、チーム全体が共通理解を持って戦えたのか。「自分がこう動けば、チームメイトが必ずこう動いてサポートしてくれる。攻めあがった穴を埋めてくれる」と自信を持って動けるのか。この部分の未整備がワールドカップで「戦えていない日本」ということにつながってしまったのではないか。選手個々は必死に戦っている。それでも、チームとしては戦っているように見えない。そこが今回のチームの最大の問題と思えてなりません。「組織と個」や「戦術と自由」をまやかしの対立軸で語ることなく、チームとしての基本的な戦い方は多くの選手が共通して理解したうえで、そこに個々の選手の個性をチームのスパイスとして加えていく。
DFラインが下がれば全体が下がり、FWが上がれば全体が押し上げていく。それは上下だけではなく、左右でも同じだし、前にスピードに乗った選手を送り出す動きも同じ。連動した動き、連動したサッカー。


それがなぜできなかったのか。できなかった選手のせいでもあり、させられなかった監督のせいでもある。そして、それらの環境を作り、放置してしまったサッカー協会。失敗は誰にでもあるし、どんな組織にもあるでしょう。問題は、失敗した時に、検証し反省し総括することができるのかどうか。それらのことをせず、同じ失敗を繰り返しそうな組織や責任者には任せられない。
今回のワールドカップのような失敗を繰り返さない為に何ができるのか。何をしなければいけないのか。甘えきった協会の姿勢を正すことはできないのか。いろいろと考えてしまいますね。