不安の本質

最終予選へのリアリズム   宇都宮徹壱さん
昨日の試合を見て、いいとか悪いとかいう以前に感じる不安の本質のような気がします。

選手一人ひとりが、今後のために自分のプレーを反省する。そのこと自体は、至極まっとうな話である。特に、久々にA代表に招集された若い大久保であれば、なおさらのことだろう。だが、それこそ「脂が乗り切っている年齢」以上の選手たちまでもが、一様に「試合自体が久しぶりだったので」とか「今日は出られてよかった」などと口にしている状況には、これまでの経緯を重々承知していても、やはり異様に思えてならない。
 出番が限られている国内組(別名「サブ組」)ではあるが、今日スタメンで起用されていたメンバーの大半が20以上の代表キャップ数を有している(本山は18、玉田は17、土肥は2)。藤田に至っては、33歳のベテランであり、ヨーロッパでのプレー経験もあるのだ。そんな彼でさえ「雰囲気は分かったけど」という言葉を口にする。
 私にしてみれば、ホームでシンガポール相手に辛勝したことよりも、むしろ彼らのキャリアや年齢に不相応な「フレッシュなコメント」に、何とも形容しがたい危機感を覚えてしまった。

そして、昨日の試合から見えてきた現実ですね。

 スタメン組とサブ組との間には、青いユニホームを着てピッチに立った時、これほどまでの乖離(かいり)があった――極論すれば、それが今日の試合の結論であったと思う。薄々、気付いていたことではあったが、その事実が明らかになっただけでも、今日の試合は非常に意義があった。だが逆に考えれば、今日の試合がもし、ジーコが当初希望していたという「功労者をリスペクトするための」花試合になっていたらと思うと、何やら首筋に鋭利な刃物を押し当てられたような気分になるのも事実である。

日本代表のチームとしての総合力を上げるとかいう以前に、互角の相手と戦うことになる最終予選に向けて、危機感を高めないと危ないと思うのですが。