選手の責任と監督の責任

イラン戦を振り返った時に、確かにそれぞれの選手に不満はあるとは思うんですよ。
私が一番気になったのは左サイド。三浦選手と中村選手の左サイドは機能していたのか。攻撃ではボールの持ちすぎで狙われる、スペースへは走らない。守備ではイランの攻撃を抑えられない。
でも、それは三浦選手や中村選手を交代させれば解決する問題かというと、そうとも言い切れない。三浦選手には三浦選手のよさがあり、弱点がある。中村選手についても同じ。問題は監督がそれを冷静に分析・検討したうえで召集しスタメンに配置しているのか。中村選手を生かすためにはあのポジション、あのやり方で良かったのか。中村選手以上に三浦選手の良さが出なかったのは、選手個人の問題なのか。


中央の守備についても同じです。2失点目はCBの2人ともサイドにつり出されましたね。それは宮本、中澤選手の責任なのか。常々突破の脅威にさらされている左サイドに過剰な意識がいっていなかったのか。高めでフォアチェックにいくのか、下がって跳ね返すのか、明確な戦い方の統一はあったのか。狙われている左サイドに対して、ハーフタイムに明確な対応策は指示されたのか、話し合われたのか。
右サイドについては、2失点ともシュートは右からでしたが、そこにいたる起点も右からだったのか。加地選手のマークがずれたことは、加地選手だけの責任なのか。そこに至るまでに日本の守備は崩されていたのではないか。
FWにボールがおさまらなかった原因は、高原、玉田選手の個人的責任なのか。パスの出し手と受け手のイメージは合っていたのか。裏へ抜ける動きが特徴の選手にポストプレーを要求していなかったのか。FWの2人の長所が出るような戦い方だったのか。


試合は選手の1人1人の対戦相手との戦いの積み重ねだという考え方も理解できます。でも、1人1人がバラバラに戦っているわけではなくて、前後左右の選手と連携しながら戦っているはずですから、誰か特定の選手の責任とか、誰かを代えれば済むとか言う問題ではないと思うんですよね。すべてのチームはバランスで成り立っているのではないかと思うのです。
そもそも代表レベルの選手ではないのなら、監督が呼ばないでしょ?


サッカーのチーム、特に監督の選手を招集するチョイスの自由度が高い代表チームというのは、監督がピッチ上に描く自身のサッカーの理想像だと思うのですよ。ある程度選手の選び方が限られてしまうクラブチームは監督のやりくりの結果かもしれませんが、日本国籍の選手なら誰でも招集できる代表チームがピッチに描くものは、監督の日本人選手を使った理想像ですよね。
それがうまくいかないのは、単に監督の何らかの能力が低いからで、それは選手を選考する能力が低いのか、選手を組み合わせて配置する能力が低いのか、選手の眠らせている能力を引き出す力が低いのか、監督に向いていないのか。
どちらにしろ、試合に対する準備に不足があったというのは否定できませんよね。2年半という時間がありながら、大一番に出てきた結果はあのチームだった。もっとも、準備しても対応できないくらいイランと日本の戦闘能力に差があったのなら話は別ですが。


もともとジーコ監督がピッチに描きたかった理想像は長居でのアルゼンチン戦で空中分解してしまったはずですから、その後はいかにその試合を勝って乗り切るかの連続だったのかもしれません。でも、やはりテヘランアザディ・スタジアムに描かれた試合はジーコ監督の監督としての能力の結果であり、限界だと思うんですよね。
ただ、今監督の責任や能力を問うてもバーレーン戦までの限られた時間の中では、ほとんど意味がないと思うのでそのことを言いたいわけではありません。しかし、イラン戦の不甲斐ない戦いは選手個人の問題を超えたチームとしての問題の部分が大きいと思うのです。