忘れてはいけないこと

helguera2006-07-15

日本がワールドカップで3試合を戦ってから、そろそろ1ヶ月が経過します。人間と言うのは強いもので、過去の嫌な記憶は少しずつ薄れていくようにできているのでしょう。嫌なことが同じ強度で感情として残っていたら、毎日生きていけなくなってしまいますし、忘れることで救われることも多い。その意味で日本の3試合も「残念な結果だった」という都合の良い記憶に自分の中でも置き換えられそうなことに気が付いたので、あの時の悔しさを忘れないためにもトップに『忘れてはいけない記憶』を当分残すことにしました。負けたことは忘れなくても、「どのように負けたか」は都合よく忘れてしまう組織もありそうですから。


下のエントリーで言う、『監督らしきことをしなかった人の采配を分析することは意味がない』という部分は同意なのですが、それでもこの4年間の代表監督の成功した部分と失敗した部分を検証して何らかの形で書き残す努力を怠ると、本当にこの4年間が失われた4年間になってしまいます。『なぜ、アジアカップでは優勝できたのか』という検証と、『なぜ、ワールドカップでは惨敗だったのか』という検証を怠り、すべてを選手の個の責任だけに押し込んでしまうのか。
確かにアジアの中では相対的に日本選手の個の力は勝っており、ワールドカップの舞台では相対的に劣っているというのは事実でしょう。でも、それって4年前のトルコ戦ですでに分かっていたことでしょう? 日本の選手がトルコの選手を上回っているなら、たとえ変な形のスタメンを組んでしまったとしても勝てたのではないですか。組織や戦術があった上でも個の力では勝てなかった。そこから組織や戦術を奪うとどれほど悲惨な結果になるのかを実験したかったわけでもないでしょうに…。


サッカー協会だって本当は馬鹿ではないのだから、ジーコ監督の初期の迷走の時点で「この監督選びは失敗だった」ということには気づいていたのだと思っています。(もしかしたら本当に「成功だった」と思っているのではないかという疑惑も否定できないのですけどね。)
でも、うかつには否定できない人を監督に据えてしまった。世界的な知名度もあるし、結果的には結果だけは残している。ましてや選考過程で独裁者の意向も強く関わっているから、監督選びの失敗を表明することは独裁者の責任を追及することと同義語になってしまう。それらの葛藤を多くのサッカー協会の関係者が持っていたと信じたい。(それでも、日本代表の強化より協会の保身を優先してしまった。)


ここで真摯に検証しないと、この4年間が本当にまったくの無駄になりかねない。協会の各人が心の奥底で思っているだけではなくて、文書なり形にして残さないと。この部分については成功だったので、今後の日本サッカーに取り入れていきたい。しかし、この部分については失敗だったので、2度と繰り返すことのないよう肝に銘じたい。それがあってこそ、1分2敗勝ち点1得点2失点7得失点差マイナス5F組最下位という無残な焼け跡から再スタートできるのではないですか。
選手の力が足りないことは4年前のトルコ戦から分かっていること。4年経って同じ結論なら、また同じ失敗を繰り返しますよ。分析や解決方法はその時々で就任を依頼する監督にまかせっきりですか。


あれだけの財力と影響力を持ちながら責任は一切取らなくて良い組織というのは、天国のような組織ですね。会長がどんな姑息な手段をとってもその椅子にしがみつきたい気持ちも何となく分かるような気がします。でも、その能天気で無責任な組織を監視できるのは株主でも社員でもなく、メディアとサポしかいないのですよね。そして利害関係にあるテレビメディアについては協会批判は考えられない。(そんな弱腰のテレビ局も軽蔑に値するのですが。)
このような甘えた組織を糾弾する方法とは、何があるのでしょうね。何もないのかな。それでも、「サッカーファンの視聴者や消費者がこのまま忘れてくれればラッキー」というようなウヤムヤな結末だけは避けたいのですけどね。どんな方法があるのだろう。