見ること、観察すること。

昨日はJRでの移動中に列車の遅延に巻き込まれ、1時間近く灼熱のホームで列車を待ちました。で、しょうがないので普段は買わないスポーツ新聞などを買って読んだのですが…。


当然トリニダード・トバゴ戦の翌日だったので、一面は日本代表絡みでオシム監督だったわけですが、『オシム不満』とか『オシム失望』とか、どうも昨日の試合を適格に表している言葉とは思いにくい。もちろん、紙面の構成上見出しの言葉数には制約があるのだろうし、写真を大きく取る一面には文字数も制限されるのでしょう。でも、どうも記事がピンボケしているというか、「昨日の試合を見てたの?」と思う記事が多すぎるのです。


で、ここからが本題になるのですが、スポーツ新聞の記者達は試合を見てるだけなのではないか? もし現場にすら来ていなくて、試合を見ていない人が書いているのなら論外ですが、実際に記者席にいても、試合を見ているだけで観察していない。
観察 goo辞書

物事の様相をありのままにくわしく見極め、そこにある種々の事情を知ること。

まず、スポーツ新聞の記者は、日本代表の試合や練習をくわしく見極めていない。私は千葉でやっている時からオシム監督に興味があったので、よく千葉の試合を見ていましたが、果たして昨日の新聞に記事を書いた記者のうち、どの程度の記者が千葉の試合をイビチャ・オシム監督就任以降見続けているのか。まず、「千葉の試合を見ている」という前提条件がないと、オシム監督のやりたいこと、やろうとしていることを推察することすらできないのではないかと思います。


同じことはテレビメディアにも言えて、スポーツコーナーで『考えて走る』という言葉だけが独り歩きしているのも嘆かわしいです。サッカーでも野球でも他のスポーツでも、考えないでプレーしている人はいないでしょう。その言葉を言えばオシム監督のことを表していると勘違いしているコメンテーターを見ると、トルシエ監督時代の「フラット3」や、ジーコ監督時代の「選手の自主性」など、単語を取り上げただけで分かったような気分になって、その言葉の裏側に込められたメッセージを紐解かない底の浅さを思い出してしまいます。


例えばそれはオシム監督の試合後の記者会見にも言えて、「90分間走れない選手がいる」と言っただけで、『オシム不満』となってしまう。たった3日間の準備期間しかなくて、全クラブから自由に選手を招集できない悪条件の親善試合で、新監督が選手に不満や失望をするものか。それは出場した選手だけに向けられた言葉ではなく、今回選ばれていない全Jリーグの選手達や、前の日本代表に選ばれていた選手達、そしてそのような試合でもそこを厳しく取り上げないメディアやサポーターにまで向けられた言葉ではないのか。それぐらい勘ぐって、なぜ次の質問でそこにある種々の事情を知ろうとしないのか。
もちろん次の質問でも答えをはぐらかされてしまって、記者に対し「自分で考えろ」というメッセージが帰ってくるかもしれませんが、少なくとも『オシム 失望』よりは違う見出しが書けるのではないかと思います。


これまでの4年間は記者にとっては楽な4年間だったことでしょう。試合の前日にはスタメンが発表されたし、下手をすれば代表発表時点でスタメンが明らかにされていた。でも、これからは当日の試合前のアップでも分からないことが日常になるかもしれない。選手達も気が抜けないが、それを取材する記者はもっと気を抜かないで集中して代表を取材しないと、見当違いの記事を連発して赤っ恥をかくことになりそうです。そこで監督に馬鹿にされたと思い込み人格攻撃的な批判記事を書くのか、それともそこで実践されている(実戦されていない)サッカーを観察し、サッカーについての批判記事が書けるのか。現在の状況はサッカーについてかけるほどの理解はなく、単なるオシムさんの行動や言動についての記事を書いているだけですね。


記者として、自分の取材活動や記事を書くことでお金を貰っているのなら、ぜひお金を払ってでも読みたいと思う記事を新聞に載せてほしいと思うものです。買った新聞は家に持ち帰ることなく、ゴミ箱行きとなりました。ぜひ「この記事は素晴らしい、永久保存だ」と思わせるような記事を、記者の皆様にはお願いしたい。



関連というわけではありませんが、思いが”かぶり”ました(笑)。
ガンバレ!スポーツ新聞記者諸君♪ 発汗 (;^_^A