川淵 - 石原 対談

いつも楽しみに読ませていただいている有閑東京倶楽部さんのところで知った記事ですが、興味深い対談ですね。

石原都知事、川淵サッカー協会キャプテン対談(3−1)
石原都知事、川淵サッカー協会キャプテン対談(3−2)
石原都知事、川淵サッカー協会キャプテン対談(3−3)
産経サッカーWEBより

地方文化の担い手としてのサッカークラブの存在や昔話としてのサッカーやグラウンドの緑化の部分について(主に3−1)は特に異論はないのですが、トルシエジーコ論(3−2)になるとどうしてこの人たちの頭は硬直してしまうのだろう。いまさらトルシエさんを擁護するつもりもないし、実際に会っていないのだから人となりは推し量るしかありませんが、日本人を見下していたというよりも、『馬鹿な日本人を見下していた』だけだと思うのです。馬鹿というと分かりにくいですが、それは自分の仕事に対してプロとして真剣に取り組んでいない人たち。例えば彼は日本のマスコミをかなり馬鹿にして見下していたと思いますが、それは解任報道の際に自宅を取り囲んで彼にとって意味の感じられない取材活動を繰り広げたり、試合前後の質問についても彼が普通の感覚として持つ記者の質問のレベルに達していないからだと感じていました。実際に、試合直後のインタビューでもインタビュアーのレベルの低さに唖然とすることもありますし。


またサッカー協会との摩擦についても、彼は代表監督として最大の効果を上げるための主張をしただけであって、実際に彼が去った今となって本大会前年にもかかわらずオールスター優先などという訳の分からない日程が組まれているのも事実ですし。この日程で彼が代表監督だったらと思うと、相当揉めたでしょうね。でも、それは我侭というものではなくてプロフェッショナルとしての当然な要求なのではないかと思うのです。それに対してその要求を受け入れられないのなら、受け入れられない理由を論理的に説明すればよいと思います。少なくとも阿吽の呼吸や馴れ合い状態では納得しないと言うことです。

答えは一つ、これをやれというのがトルシエの代表チームのあり方でした。
でもそれには限界があって、日本はホームでベスト16に入ったけど、ドイツW杯で、その上は望めない。監督の言う通りにやれ、他のことは考えなくていいというやり方は、限界がある。
(川淵氏の発言 3−2より)

ここも意見の分かれるところですね。私などには、フラットラインでの守備なども、『これが基本、これがスタートライン。この原則を崩さない限りあとは自由にやれ、原則以外のことは自分で考えろ』と言っているように感じたのです。高めのフラットラインという原則を崩してしまうと、彼の監督としての存在価値がなくなってしまう。深いDFラインで引いて守るチームを作りたいのなら、彼を監督に雇っている意味がないわけです。戦術にとやかく言わない監督を雇えばいいだけのことで、それが現在の姿なのかもしれませんが。


日本人のストライカー論について(3−3)も語っていますが、皮肉な言い方をすれば『ストライカーの性格をトルシエ的にすればいい』だけの話ですよね。まわりとの調和よりも自分の結果を優先する。自分の要求するレベルのパスが出てこない時は、低いレベルのパスに合わせるのではなくて、出し手にガンガン文句を言う。阿吽の呼吸や馴れ合いを許さず、自分の主張はとことんする。これってエゴイスティックなストライカーの性格でもあり、トルシエさんの性格でもありませんか。
日本サッカー界がトルシエさんの性格を締め出している以上、日本サッカー界に真のストライカーが育つはずがないと言ったら言い過ぎでしょうか。


人にはそれぞれ物事の見方があって、川淵さんには川淵さんの見方があり石原さんの見方があることは否定しませんが、この2人が組織のトップに立っているときに、果たして自分以外の物事の見方にどれほど耳を傾けているのでしょうね。その部分に非常に不安を覚えてしまう対談でした。