状況判断とリスクチャレンジと算数

「算数」が弱いですか…
日本のサッカーは「算数が弱い」? スポニチワールドサッカープラス 西部謙司さん


西部さんの主張は至極ごもっともだと思うのですが、それでは算数を強くする方法はどうすればいいのでしょう。
コラムの中で先日の親善試合の相手であるボスニア・ヘルツェゴビナの選手は日本に対して特別にプレスをかけたのではなくて、普通のやり方だと書いてあります。それでは、なぜそのように出来るのか。日本戦のために強化合宿をやったとはまず思えませんよね。前半と後半のボスニア・ヘルツェゴビナの変容を見ても、事前に日本を研究してきたとは思えない。前半の45分を戦って見ての体感とハーフタイムに監督に煽られた結果が後半のボスニアのパワーにつながっているのでしょう。監督から「日本のサイドを積極的に突いていけ」という指示があったとしても、いつ、どのタイミングでいくのかは選手の判断ですね。
西部さんのコラムの中でも触れているDFが相手のパスをインターセプトしてフリーの状況の時に、そのまま自分で上がっていくかパスを出して安全に自分が戻るかも選手の判断ですよね。


では、そのような判断の基準は、クラブや代表に入ってから教えられて身に付くものなのかどうか非常に疑問なのです。Jリーグのテレビ中継などでもベンチからの選手に対する行動の指示が聞こえることがありますが、時々試合展開よりもその声を注意して聞いていると意外に思うほど基本的な指示が出ていることがあります。もちろん試合後半とか、選手の集中力が落ちているような状況の中で注意を促すための指示はあるでしょう。でも、ユースとかもっと下の世代の選手に出そうな指示がJ1でもあったりします。コラムにある算数に強いか弱いかの部分も含めて、選手の状況判断能力というのは、代表レベルやJリーグレベルで培われるものなのかどうか。


サッカーの文化、文法、共通理解等、言葉はいろいろありますが、その国のサッカーの中で『このような場面ではこうする。こうしなきゃいけない』という共通の絵が日本の選手には描けていないのかなと思うときがあります。DFが相手のパスカットに成功してフリーの時に、状況判断をして上がっていくのか、それとも当然のように上がっていくのか。リスクチャレンジを避けたがる国民性の問題もあるかもしれませんが、それ以上に子供の頃から無意識に見てきたサッカーでどのような絵がピッチに描かれていたのかで決まってしまうのではないかと思ってしまいます。
状況判断をしてリスクを冒すことに後ろ髪を引かれながら出て行くのか、それともそのようなシチュエーションなら条件反射のように自然に体が動いて上がっていくのか。体力的に余裕があるときなら前者と後者の行動に大きな差は表れないかもしれませんが、試合終盤の体力的にきつい状況や僅差の試合で精神的に追い詰められている時には大きな差が表れるのではないかと思います。


今現在日本代表や国内のトップリーグでも実現が難しいような状況なら、監督の指導や約束事として徹底していかないと重要な場面で実現きないだろうし、横浜FMの松田選手のようにそのような動きが出来ている選手をどう評価するかで日本サッカーのこの先10年20年が変わってくる問題なのではないでしょうか。私には今現在の日本代表は、DFのそのようなリスクチャレンジをあまり好まない状況に思えてしまいます。アジア予選の頃には宮本選手や中沢選手に対しチャンスがあったら積極的に攻撃に参加しろとジーコ監督が言っていたような記憶もありますが、結局のところ現代表でDFに求められている原則は「セーフティ」の一言に尽きてしまうと思っています。


西部さんの言う「算数を強くする」ことの実現には、協会主導で徹底していく方法なのか、代表チームをピラミッドの頂点において日本サッカーのショーウィンドウとするのか、どちらかしかないのではないかと思います。どちらにしろ日本サッカーのコンセンサスをこれからの将来どうとっていくかに関わってくるのでしょうね。前の代表チームでは「リスクチャレンジ」はチーム全体のコンセプトとして根底に流れているように思いましたが、現代表チームの根底に流れているコンセプトは「セーフティ」だと思ってしまうのです。
チーム全体に「セーフティ」というマインドが共有されていると仮定したときに、中田選手のリスクチャレンジが浮き上がってしまう現象が説明できるのではないかと思うのです。ボールポゼッションの考え方やDFラインの高さの(低さの)設定など、現代表には言葉にはされなくても「セーフティ」な考え方が随所に見られます。その中でベンチサイドからいくら『チャレンジしろ』と声をかけても、チーム全体のマインドが『セーフティ』だったとしたらうまくいかないのではないか、そんなことを考えてしまいます。


その国サッカー文化としてまだリスクチャレンジとセーフティの按分や共通理解が熟成されていない情況の中で、代表チームやクラブチームのそれらのバランスを取るのは誰の役割なのか。もし千葉の監督がオシムさんでなくても、千葉の選手は今と同じようなリスクチャレンジを仕掛けるのか。日本という国のサッカー文化の問題と監督の指導実現力の問題、西部さんの言う「算数を強くする」ということは、この2つの問題が奥深くで交錯している難しい課題に思えてきました。