代表監督と協会会長

少し時間が無かったのと話の内容に呆れていたのと両方の原因で放置しておいた先日のNHKでの川淵氏の発言について、少し考えて見たいと思います。


私が一番絶望的に感じたのは、氏の発言の中でもこの部分です。

それまでの試合では試合の中身について気にしていたが、この試合が終わった時には試合の中身など一切気にしなかった。内容を気にするのは愚かだという悟りをはじめて開いた。とにかく勝ちゃいいんだと、タイトルのかかった試合は。中身なんかどうだっていい。99%素晴らしい試合をして、引き分けるのでは話にならない。試合後のマスコミ対応で、マスコミに監督の進退について聞かれたときに、「勝ちゃいいんだ、勝ちゃ、中身なんかどうでもいいんだ」と心からそう思って発言したのが自分としても印象的だったし、それ以降ジーコ監督を解任と考えたことは一回もなかった。
(要約は筆者。発言全文は再放送があるようなので、気になる方はそちらでお確かめください。)

タイトルの懸かった試合での結果が大事だという部分は理解できないこともない。しかし、だからといって中身(試合内容)を検証する行為を放棄して良いということではない。”中身のある引き分け”と”中身の無い勝利”なら中身の無い勝利に価値があるかもしれないけれど、なぜ”中身のある勝利”と”中身の無い勝利”を比較しようとしないのか。


過去にも取り上げましたが、一方でこちらのインタビューではこのように発言しています。

――W杯の目標は。

 何勝何敗と言う気は毛頭なくてね。僕の本心を言うと、ジーコの「サッカーを楽しめよ」という言葉を受け止めた選手が、試合本番で120%の力を出す姿を見たい。可能性は高いと思う。ジーコのカリスマ性が、勝負どころで出てくるんじゃないかな。
川淵三郎(サッカー) W杯で120%の力発揮を 朝日新聞

決して揚げ足を取るつもりでもないし、状況に応じて発言の内容が微妙に変わることは良くあることです。でも、違いすぎねえ?
一方では結果が全てと言い切っていて、一方では結果は求めないと言い切る。ワールドカップの本大会というのは、代表活動の中で一番結果が求められるものなのではないでしょうか。本大会の価値と予選の価値が同じだと仮定したら、予選で敗退したとしても選手が楽しんでいて力を発揮していたからOKということになるの? 若しくは予選と同じように勝負どころでの相手のオウンゴールやロスタイムの決勝点が本大会でも出ると?


「中身は問わない。結果が全て」と言い切るなら、本大会でも結果が全てだと言うスタンスで強く監督にプレッシャーをかけて臨んで欲しい。フランスワールドカップを終えて日本について他の世界中の国々の人に残ったものは、結果で言えば「3戦3敗」という成績だけ。
でも、残したものは決してそれだけではなくて、見る人には日本代表のプレーの中身(試合内容)も印象として残したはず。やはり、結果と内容は決して二者択一で選択するものではなく、どちらも追い求めるもの。ただし、その時々に応じて結果を求めるのか内容を求めるのかのバランスや重要度が変わるだけでしょう。そこを強引に「二者択一」に話をすり替えて、選んだ自分の責任を回避しているようにしか思えない。


結局のところ、監督としての経験やコーチとしての指導歴や監督になるための講習などを受けていない人を監督に選んでしまった以上、どのようなチーム作りをしてどのような試合をするのかはそれ自体が博打のようなもの。100%負ける博打ではないけれど、勝つ可能性の少ない博打でしょう。そしてそれ以降の試合結果もまるで博打のよう。「このような準備をして、このようなチーム作りをしてきたから、このような試合になる(はず)。」という論理的な部分は一切無く、やってみなければ分からない。元々勝負というものはやってみなければ分からないものだけど、準備というものは勝つ確率を少しでも上げるためにあるものでしょう。しかし、協会会長がそれを求めないのだから、監督は楽でしょうね。
唯一考えられる法則は、個々の選手の力が上回れば勝ち、個々の選手の力が劣れば負ける。そこに戦術や組織の入り込む余地は無い。


どんな形であれ、ワールドカップ本大会で良い結果を残してくれるのなら嬉しいです。でも、この4年間を過ごして6月の本大会を終えた後に、日本代表に何が残るのでしょうね。
「選手達の素の力で戦ったら、これぐらいだった。」
これでは、空しさだけが残るような気がします。