技術の系譜、思想の断絶

NHKで2005年3月27日(日)に放送したものの再放送ですが、この番組を見ました。
「安全の死角 〜検証・回転ドア事故〜」 NHKスペシャ

六本木ヒルズの大型回転ドアで起きた死亡事故をきっかけに立ち上がった「ドアプロジェクト」。自動ドアの安全検証だけではなく、生活に潜む様々な安全の死角をもう一度検証する意味で、自動車や電車のドアや家屋のドアについてももう一度危険性を再認識し、危険性が潜んでいることを理解したうえで安全に設計し安全に使う、といった非常に深い意味のある番組だったと思います。


その中でも主題となっている回転ドアの危険性についてですが、事故を起こした当該の回転ドアは回転部分の重量が2.7トンもあるものが回っていたそうです。いくら安全センサーがついていてもそれだけの重量のものは慣性の法則からそんなに急には止まらないし、挟まれたときに人体にかかる衝撃の強さは物質の重量に比例して増えてしまう。
この回転ドアの原型になるものは欧州で開発されたものだそうですが、その時点では回転部分はアルミ製で重量も0.9トンだった。しかし、その製品が日本に導入されるにあたり、アルミではドアの見栄えが悪いので重量の増加を承知でステンレスを表面に貼り付けたことで重量が1.2トンになった。さらに回転部分が重くなったことで当初のモーターでは強度が不足して、回転部分ではない固定部分についていたモーターを外し、回転部分に直接取り付けたことでさらに回転部分の重量が増えた。さらに日本の高層ビルに取り付ける中で、気圧の差の問題から当初のアルミ製ではドア部分の強度が不足し、3倍の重さになる鉄製のドアになった。
このような変遷の中で、当初の設計思想にあった、「回転部分を軽くすることで、万が一の事故の際の人体にかかる衝撃を軽くする」という技術が伝わらないものになってしまった。


それが起きる遠因として、当初の海外メーカーから技術供与を受けていた最初のメーカーが倒産し、技術提携が打ち切りとなり思想の系譜につながるものが一切なくなり現物だけが残ってしまった、という不幸な状況もあったようです。
当初の安全重視という思想が時間の流れの中で失われ、目先の改良だけが行われいつしか安全の本質=回転部分の軽量化という部分が見失われた。そして安全の確保はセンサーの強化という部分に置き換わってしまった。しかし、いくら感度の良い安全センサーを取り付けたとしても、重量の極端に重い回転ドアは急には止められない。



いろいろな事故が起きるたびに感じることなのですが、「絶対に安全」と過信して使うよりも、「このような危険があるから、安全に使おう」という考え方を持たなければいけないだろうと思っています。効率であったりコストであったり、様々な要求が積み重なる中でいつしか人は目先の利益や出来事だけに心を奪われ、本当に大切なものを見失ってしまう。
これは一つの例ですが、「原子力の利用は安全である」と広報するのではなく、「危険があるけれどできるだけ安全に運用していく」と考えなければいけないと思うし、「電気が足りないから原発が必要である」という結論を出す前に、「ネオンや照明など、必要以上の電気を使っていないか、危険な原発を建設し利用するのと、少しだけ電気を節約して少しだけ不便な生活を我慢する」のとどちらが良いかを考えた結果、それでも原子力発電を作るという結論に至らないとおかしいと思うのです。


少し話が飛躍しましたが、「安全」という問題と「利便性」や「見栄え」や「コスト」という問題、どちらが重要な問題なのか、よく考えなければいけないとあらためて感じるとともに、『何故そうなのか、何故そうだったのか』という本質を見失ってしまうと、物事の判断を見誤ってしまうので、読解力というか理解力というか、本質を見抜き考える力というものを考えてしまいました。
フラット3の本質もオフサイドトラップではないし、よく考えなければいけませんね。