無責任ではなく、危機意識。

プール事故の問題について、「無責任の連鎖」という切り口のコラムになっていますが、私はむしろ欠けていたのは責任ではなく、危機意識ではないかと思っています。
記者の目:「無責任の連鎖」で起きた吸水口事故 毎日新聞 高本耕太さん


市から業者へ、業者から下請けへと管理が移っていくうちに責任感が欠如していったことは事実でしょう。極端な例で言えば、何か1つの作業を1人で請け負えば、その作業にかかる全ての責任はその1人のものとなりますが、100人で請け負えば1人1人と責任は百分の一になる。また、そのような数の問題ではなく、市から業者、業者から下請けと仕事が降りていくうちに、曖昧になる責任も多いでしょう。
またリンク先のコラムにもあるように、市や県や保険所などの管理責任も曖昧だったのでしょう。そこに責任感の欠如=無責任の連鎖があったことは否めません。


しかし、今回の事故で私が感じるのは責任感の欠如というよりは、むしろ危機意識の欠如というか危険に対する恐れが足りない。毎日の業務の中で、本来人命に関わるような危険箇所が「事故は起きないだろう」と見逃されていくことはあることだと思います。しかし、そのように日常に流される毎日の中で、『ここで最悪の事故が起きたら、どのような事態が起きるか』ということを誰もが常にほんの少しでも持っていたら、この事故は防げたのではないかと思うのです。

『吸水工の蓋が針金で留まってたら、危ない』
『吸水口の蓋が外れてたら、人が吸い込まれるかも…』
『吸水口の蓋が外れたから、ポンプ止めなきゃ』

その一瞬の状況変化の中で、最善の結果から最悪の結果まで瞬時に頭の中に描くことができて、その中から最悪の状況に備えて最善の措置を選択する。そのためには、毎日の日常業務の中で危機意識を持ち、常に”最悪の事故を起こさないための想定”をしているかいないかが運命を分けるような気がしています。


またこのような事故や事件が起きた時に、責任の追及だけをすることが果たして最善なのかどうかというのは常に考えてしまいます。確かに人為的な事故の場合、責任者の刑事責任を追及する必要や気持ちも分かります。しかし、個人の責任や会社など組織の責任だけをあまりにも追及すると、そこには自己防衛の意識が生まれ、事故の本当の問題点が覆い隠されてしまうことが多いように思います。事故の刑事責任を追及するのか、それともそこはある程度に留め、問題点の洗い出しを優先し再発防止に努めるのか。


再発防止を優先する場合、ある程度免責を認め、事故の本質的問題点を関係者から洗いざらい聞き取り調査をしなければなりません。しかし、この段階で刑事責任の追及の可能性もあると、関係者は口をつぐみます。そしてこれは憲法にも認められている黙秘権に当る行為ですから、モラル的にはどうかと思いますが責めることはできなくなってしまいます。


航空機事故鉄道事故、また食品の安全に関わる事故についてもそうなのですが、そのような事故について刑事責任を追及する機関である警察が介入している時点で、再発防止の観点からはかけ離れてしまっています。また、警察の介入とは別に、あまりにも責任論に振れ過ぎると民事責任や企業利益の観点からも再発防止とは離れてしまう。
毎日新聞のコラムにある

亀井利明・関西大名誉教授(危機管理論)は「過去にどのような事故があったか全国の関係者に周知徹底されず、情報が共有できなかったことが問題だ」と指摘する。04年に新潟県のプールで息子を亡くした母親は「当時もっとマスコミが騒いでくれれば今回の事故は防げたかもしれない」と訴えた。

という部分について、マスコミなど報道機関に期待するよりも、国民生活における危機管理を広く全般に受け持つ再発防止を主な観点とした組織の必要があるのではないでしょうか。
最近のニュースでも取り上げられたガス湯沸かし器の事故やシュレッダーの事故など、監督官庁やメーカーに多くを期待するよりも、何らかの事故が起きた時に再発の可能性のある事故なのか、刑事責任の追及よりも国民的利益の立場に立って例え一部を免責しても再発防止のために事故の問題点を追及し、その結果を広く社会に還元する組織が必要ではないか、そんなことを考えてしまいます。


このような部分については、組織的な制度の立ち遅れだけではなく、日本人の意識の奥底にそぐわない考え方なのかな、などと思うところもありますが。