サウジ戦を振り返る

試合を見て、その後にネット環境がなくて試合評を読まないと遥か昔の出来事のように感じてしまいます。私のようにわざわざ北海道まで見に行くような人間は少数派で、大部分の方はこのように終わってすぐに記憶の彼方に消えていってしまうのかな…、などと考えてしまいました。
まあ、それはそれとして、相変わらず食えない狸親父だ(笑)。


サウジアラビア戦後 オシム監督会見 スポナビ

そうそう、よい点についていうのを忘れてた、一番よかったのは、次の試合のPKキッカーが誰でないか、ということ(笑)。それは大きな収穫だったと思う。

冗談は、さて置き。

それは大きな問題ではない。走れるかどうか、走れない選手がいるところでどうするか、ということ。よく誤解される方がいるようだが――。対戦チームが、あるサイドからプレスをかけてくる。実際には、われわれがピンチになるのは反対側のサイドなのだ。ことわざというほどではないが、危険に見えるところほど、そんなに危険ではない。

この部分のコメントを読んだ時に、ワールドカップドイツ大会のオーストラリア戦の惨敗を思い出したのですよ。確かに試合前からオーストラリアの高さが脅威だと言われていて、高さについての対策については多く語られていた。でも、試合が始まって時間が経過して、確かに放り込まれる高いボールは跳ね返し続けていたけれど、時間の経過とともに体力を消耗して、跳ね返した跡のセカンドボールが拾えず結局は明け渡したバイタルエリアからの侵入で逆転弾ととどめの3点目を取られてしまった。危険に見えたのは相手の高さだが、本当に危険だったのは高さに対する意識で引きすぎてバイタルエリアを明け渡してしまったことなのかもしれません。

ワールドカップ(W杯)ドイツ大会、フランス対ブラジルの試合はご覧になっただろうか。メンバー表には、カカ、ロナウドロナウジーニョアドリアーノジュニーニョ。つまり攻撃という意味では、世界のベストプレーヤーが5人も6人もいた。その結果がどうだったか。バランスが崩れたわけだ。GKを除けば、フィールドプレーヤーは10人しかいない。1人いいプレーヤーがいて、その周りで5人の選手が走る。そうでないとチームは機能しない。それを理解しないで、ブラジルだからといって、怖がって最初から守備だけをしようとすると、彼らの思うつぼとなるだろう。日本の現実からはかけ離れた話かもしれないが、サッカーとはそういうものだ。

それらを理解していなかったのは、ブラジルだけではなかっ……(以下自粛)。


この質問をした記者は、凄い。

――今後も巻には先発のチャンスを与えるか?

 巻が駄目だというのか?

――駄目というわけではないが、ほかにももっといいFWがいると思うが

 具体的な名前を出してくれ

――播戸

 ナシとリンゴを比べて、どちらがいい果物かということか? ほかには?

――高松

 巻と高松の髪の色を比べてはどうか(笑)?

――髪の色はどちらが好きか?

 色の問題ではない。高松には高松のクオリティーがある。

勇気ある質問者だ(笑)。というか、会見で記者の側にもようやく少しの余裕ができてきたのかな。




さて、他にもコラムをリンク。少し長いけれど、一部引用します。
「終わりよければ、すべてよし」 宇都宮徹壱さん スポナビ

例えば今日の会見で「今後も巻には先発のチャンスを与えるのか?」という質問があった。確かに、今年5月9日のキリンカップ・対ブルガリア戦以来、巻は代表でのゴールから遠ざかっている。6試合連続でスタメン起用されながらも、結果を出せないことについて、その実力を疑問視する声が出るのも当然の話なのかもしれない。しかし、それでもオシムは巻をかばい、このチームにおける彼の存在意義を主張する。

「巻が果たす役割は、汚れ役だ。大事な役割を果たしていることを忘れてならない。相手のゴールとハーフウエーラインの間を走り回り、時にはスライディングタックルまでする。そういうFWがほかにいるだろうか?」

 確かに今日の巻は、いつも以上に前線で“鬼プレス”を掛け、相手の攻撃を遅らせることに少なからず貢献していた。こうした目に見えにくい、記録に残りにくい選手の働きというものを、オシムは何より尊重する。同様のことは、今日の三都主についても言えるだろう。いつもとは異なるポジションながら、折を見て左アウトサイドに飛び出し、駒野との巧みなコンビネーションからたびたびチャンスを演出した。
 この試合ではゴールもアシストもなかったものの、それでも「サウジのサイドバックよりも、加地と駒野の方が、より相手に脅威を与えた」(オシム)のは、三都主の働きに負うところが少なくなかったはずだ。

 こうした、記録に表れない功労者の存在こそが、実のところ、現在の日本代表の屋台骨を支えている。そして、そういった選手たちに対して、ありったけのリスペクトを惜しまないのが、指揮官・オシムの本質だったりする。

結局のところ、ジーコ監督時代の日本代表とオシム監督になってからの日本代表の”どちらが好きか”(あくまで”好きか”であって、”強いか”ではない)は、このような”水を運ぶ選手”や”汚れ役の選手”を、どこまで評価するのかの違いなのかと思っています。例えば、2002年の日本代表チームの中でも、戸田選手や明神選手や森島選手の存在をどのように評価するのか。古い話だけれど、それらの選手を選んで中村選手を選ばなかった監督の選択を支持できるのか、できないのか。本質的には、日本のサッカー界に対して、同じ命題を投げかけているだけのようにも思えます。


オシム監督が見ているもの サッカー番記者ジャーナル −ボールと紡ぐ徒然草